ねこには借りがある
セブンイレブンのエビマヨネーズおにぎりがまだ105円だった時代(現在は183円(税込))に私は空を飛んだことがある。
柔らかい薫風が130cm前後の華奢な体を包み込む絶好の半袖半ズボン日和。私はロナウジーニョ(サッカーの腕前から安直にあだ名をつけられた友人)との待ち合わせ場所である小学校の校庭を目指し、マウンテンバイクのキックスタンドを勢いよく蹴り上げた。アパートの駐輪場から公道まで続く植栽の石楠花を横目にギアを一息に1から6に上げ、目一杯ペダルを漕いでみせた。数秒後、気がつけば公道沿いの平屋の屋根が見渡せるほど高い空の上にいた。
学校帰りに拾ってくるものは、BB弾・黒く汚れたキーホルダー・月極駐車場の看板・大型犬(どこからか逃げ出してきたコーテッド・レトリーバー)に至るまでさまざまである。ある日の学校帰り、道路脇に設置されたポール(図1)が回転式のネジによって固定されていることに気が付いた私はそれを持って帰ることにした。背中に名刀を背負う侍の如くポールを背中に刺して誇らしげに歩く。いつしか茶色いサビ猫が私の後をとぼとぼとと追い歩いていた。

結局そのまま私の足跡を追い家の中まで入ってきたその猫を「チョコ」と名付け、飼うことに決めた。ごはんを食べた・鳴いた・足にすり寄った・添い寝をした─チョコの一挙手一投足に、渋々同意した両親含め家族は恍惚とし猫の深淵へと落ちていった。地上の楽園を発見した私は顎に手を添え、いつしかソファの隣に堆く積み上げられている「ねこのきもち」を読み漁ってはふむふむと訝しげに頷く。アナログテレビからは「劇的ビフォーアフター」のBGMが流れ、匠は学校帰りに拾った長い木の棒とビニールテープを組み合わせておもちゃを作る度にチョコのヒゲが上がるのを期待した(「猫は嬉しいとき、ヒゲが上がる(引用:ねこのきもち)」)。学校から帰ると玄関先にランドセルを投げ、雨の日も風の日も暗くなるまで遊んだ。おやつに煮干しを分け合い、眠りにつくその瞬間までチョコを感じていた。
それから数年が経ったある日の夕方、学校から帰ると家の中は真っ暗だった。靴を脱ぎ捨て暗い廊下を歩きリビングの扉を開けると、重たい暗闇の中で母が泣いていた。はじめて見る母の泣き姿に困惑しながら事情を尋ねると、チョコの訃報が返ってきた。車に轢かれてぺしゃんこになってしまったそうだ。胸が痛くなるほどの衝撃に耐えられず目から大粒の涙が溢れて落ちてきた。それからしばらく無限に広がる虚無の銀河に押し潰されそうになりながらも普段通り過ごす他なかった。
チョコの訃報から1ヶ月後、私はとうとう空を飛んでいた。ゆっくりと平屋の屋根を眺めていた次の瞬間、勢いよく頭から地面に叩きつけられた。真っ二つに折れ曲がったマウンテンバイクを支えにゆっくりと立ち上がる。下を向いた拍子に赤黒い血がビタビタと垂れ落ちてきて、やがてパニックに陥った。見知らぬ女性の「大丈夫よー!大丈夫だからねー!…」と言う声が徐々に遠ざかっていく。
気がつくと近所の病院にいた。数十分前、勢いよく家前の丁字路に飛び出した私は走ってきた乗用車に真横から撥ねられていた。幸運にも命に別状はなく「お大事に」や「無事でよかったね」などの温かい声援を背に、駆けつけてくれた父と病院を出た。頭に巻いた包帯がなんだか誇らしかった。帰宅後、両親は警察官と共に事情聴取と現場検証に出かけ、私はそのまま眠りについた。
翌朝、学校へ行く前にいつものようにチョコの没地に手を合わせているとあることに気がついた。どうやらチョコの没地と私が空から落ちてきた場所は同じだったようだ。学校から帰り母にこの不思議な話をすると「猫ってね、飼い主のために身代わりになることがあるのよ。チョコにお礼言っときなさいね。」と言った。それから毎日朝と晩の二回手を合わせてチョコにお礼を言うことにした。
あれから約10年、私は大学生になっていた。相変わらず注意力散漫といえば凄惨を極めるが、なんとかしぶとく生き延びていた(飴玉を喉につまらせる/箸を咥えたままうたた寝し口に刺さる/寝ぼけて二段ベッドから落ちる/後頭部・顎の縫合/腕骨折/右足剥離骨折などなどたくさんの災いを乗り越えて)。チョコの没後、猫の深淵の底に辿り着いた両親は定期的に保護猫を迎え入れており久しぶりに帰った実家には7代目猫の「フク」が待っていた。占いに出掛けていたという両親も帰宅し、晩は久しぶりに家族で食卓を囲んだ。キッシュが盛られた大きな器をフォークやらスプーンやらがかちゃかちゃと音を立て、母は昼間に行った有名な占い師の話をした。はじめに両親の出会いを言い当てられすっかり信頼しきってしまった母はついでに私のことも占ってもらっていた。四柱推命・生年月日・氏名の3つを元に占った結果、私の適職は医者・デザイナー・弁護士らしい。しかし一通り話し終えるとおずおずとこう言った。
「この子…10年前に亡くなられてますよね…。」